第70話   殿様の釣 Z   平成15年12月25日  

16代当主酒井忠良(タダナガ 18881962 忠篤の次男)氏は、兄の早世で大正4(1915)に家督を相続し伯爵となる。その後昭和25(1950)に邸宅及び宝物や動産などを寄付して致道博物館を設立した。詩歌、書を良くし、磯釣りを楽しまれた人物として知られる。又地域振興のために鶴ヶ岡城の百間堀跡の広大な敷地を市に寄付した。

この忠良氏も釣が非常に好きであったので家に伝わる名竿を持ち出して、釣好きの先代のお供をして釣の基本を教わったとある。汐の動き、大物釣の極意などを徹底して教わり13代、14代からの上士の釣である赤鯛3尺を目標に魚を釣った。しかし、お年を召した昭和30年代の後半にはプッリと釣りを止めてしまわれた。

殿様から釣に出掛けると連絡が入ると蝦屋は撒餌の分の蝦も集めなくてはならないので、沢山の川蝦を集めるのに鶴岡、朝日村、大山と庄内の南半分を駆けずり回りやっとの事で集めて差し上げたとの事である。特にスズキ釣の追っかけ釣りをする時は大量の川蝦を必要とする。昭和9年の鼠ヶ関の桃太郎と云う船頭の案内でスズキ50本を上げたと云う記録がある。もちろん船頭の腕にも左右されるがスズキの群れを追いかけながら撒餌をして釣る釣で大量の撒餌を必要としたが、入れ食い状態となる釣らしい。其のスズキ50本をリヤカーで別荘まで運び鶴岡の親戚、知人にお裾分けをしたと云う。当時殿様の釣専用の船頭は加茂から鼠ヶ関までの各漁村に1名以上計56名は居たと云うから流石殿様の釣である。

この殿様は磯釣りの他、船釣りも好まれたと云うが、先代からの教えと釣漁師の長右衛門の指導で磯釣りの腕前も大層なもので生涯の最高は昭和15910日午前二時過ぎに釣った大岩川村堂岩の赤鯛の二尺六寸二分であった。特に静凪の深夜に釣る赤鯛釣がお好きで、生涯三尺の赤鯛を目標に釣りをなされていたが、それでも二尺六寸二分の鯛の引きは大変な物であったろう。その時お供した甥の忠一氏が思い出を語るに二尺六寸二分の大赤鯛の引きは強烈で殿様が海中にズルズル引き込まれるので必死に腰にしがみついていたが、殿様が「早く、スクエ・・・、早くスクエ・・・」と慌てて叫ぶので海に浸かりながら鯛をすくったと云う話が残っている。この魚拓は別荘にて17代忠明さんが魚拓に取り致道博物館に展示されている。この時の餌はアワビとマエであった。其の他半夜で赤鯛二尺、鷹羽一尺七,八寸を三つも上げられたと云う記録もある。

殿様の釣は1700年代の温海温泉への湯治のついでの浜遊びの釣に始まり、下々が黒鯛を目標とする釣であったのに対し、殿様の釣は魚の王者赤鯛三尺を目標にする釣を行っていたのである。